俗名、穂高見命の本名は、宇都志日金析命(ウツシヒガナサクノミコト)。 倭(ワまたはヤマト)の奴国の王であったのではないかと。 綿津見族の略称が、安曇族である。 綿津見族は、製鉄技術を持っていた様です。
穂高見命の最大の任務は、天皇族の1敵国で、
従い諏訪下社は、海の神、上社は、戦の神となるのだろうか?
安曇族の主領地は、
歴史上安曇族が、消滅するのは、大事件。 かすかに、名残は、海神、雷神として。人名では、アズミ、アツミ、ワダ、ワタナベなどでしょう。 命が穂高の山を愛した為、穂高見命と言われたのが実情であろう。 里宮には、穂高見命の外、天照大神、ニニギ命等の神も大神として祭られている。
上高地の明神地区は、特別に後まで神河内(かみこうち)と、言われ、 |
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又、狩猟生活していたことであろう。 |
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田代、湯川、越後川、宮川、徳郷(トクゴウ)(明神)、徳佐(徳沢)古池、横尾、わさび野 わさび沢、熊倉沢、一の俣、二の俣があった。 杣には、入り4カ村、今の安曇村全域から入った。
上高地に入った約14人ほどの出張役人は、
与九郎の地(明神橋辺り)で、木々をあらため、
現在の明神橋あたりに、上高地唯一の橋、
現在、これらの地名は、忘れ去られているが、
この地は上高地の中心なので建物も多くあったと思われる、 明神館の前身の徳郷の役人小屋は、1600年-1700年に創設されている。
与九郎の地は、明神館と明神橋の間の地のこと。 明治に、湯屋を旅館にし、上高地温泉�鰍ェ出来る。
昭和初期に、キコリ小屋の一つ、徳沢小屋を旅館にしたのが 徳本小屋は、言うまでもなく、旅館、明神館の前身です。
「信府統記」等は、穂高岳とは、穂高明神の鎮座する山としている。 1828年には、播隆上人、槍ヶ岳登山がある。 穂高神社、奥宮参りも、しばしば行われている。たぶん徳郷の小屋の一つに泊まったことでしょう。
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明治7年、上高地の伐採に係った「入り四ヶ村」合併により安曇村誕生 明治14年、ウィリアム・ガウランドが日本アルプスを命名した。
明治18年、上條百次朗(私の祖先の一人)上高地牧場開設、 嘉門次、上高地牧場に上納することで、池で漁をすることとなる。
明治24年、ウォルター・ウェストン、旧島々村の旅館、清水屋の主人 このころ、上高地温泉株式会社が設立される。 明治25年、与九郎大橋が流された事により、河童橋(跳ね橋)を設立。
明治26年、ウェストン穂高岳(現在の明神岳と前穂高岳の総称)登頂
嘉門次がたまたま、案内人の一人に選ばれた。
小島烏水により、徳郷の小屋(明神館の旧名)、温泉宿(上高地温泉)、
明治20年頃 日本地図編算により、
それまで、峠と言えば、上高地に入る道はこの峠以外に無く。
突然、徳本峠の名前が当てられた。 明治31年、明神池が長野県の社有地となり、翌年穂高神社に引き継がれる。 明治38年、日本山岳会発足。 明治43年、現在のような吊り橋として初代河童橋できる。 明治45年、養老館(五千尺ホテルの旧名)開業。
大正初期 山岳名の大変更により 大正4年、焼岳大爆発、出来た池を大正池と命名。
大正5年、山林局が上高地一帯を保護林に指定、 大正12年、上高地温泉�鰍ェ、徳本峠小屋を設立。
大正13年、徳郷に、吉城屋開業、 昭和2年、芥川龍之介、小説、「河童」発表 昭和3年、上高地が国の名勝及び天然記念物に指定される。
昭和4年、徳沢園が牧場の小屋として始まる。 昭和8年、上高地へバス乗入れ、帝国ホテル開業、 昭和8年、徳郷小屋の権利者により、明神館の開設。 昭和9年、上高地が中部山岳国立公園に指定される。 同時、長い間続いた上高地牧場が、終わる。 昭和10年、河童橋までバス乗り入れ開始。 昭和23年、岐阜県平湯までバス乗り入れ開始。 昭和27年、特別名勝及び特別天然記念物に指定される。
昭和28年、上高地の主官庁が、林野庁から厚生省へ所管替え
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大衆登山基地としての上高地、 大自然の中の保養地としての上高地、 大観光地としての上高地。
昭和31年、実在のナイロンザイル事件から、井上靖、小説「氷壁」 昭和40年、上高地バスターミナル完成 昭和42年、第一回上高地開山祭。 昭和40年代、中の瀬、及び徳郷(白沢の渡、明神)のキャンプ廃止。 昭和50年、上高地、岩魚全面禁猟となる。
昭和30年代までは、登山といっても今と全く比べ物にならない。 そして、入山者数は、比べ様も無くはるかに少ない。 今、上高地と言えば、河童橋と、大正池しかない、という時代となった。 平成10年、中部縦貫道の一環として、安房トンネルがあいた。
今後は、どのような展開になるのでしょうか。 |
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