穂高神社奥宮は俗名、穂高見命(俗名)の神様が祭られています。
穂高見命の見とはオサメルという意味のようです。
綿積(海神・わだつみ)の神の嫡子。
神武天皇の叔父さんにあたるようです。
安曇、綿積、住吉等、綿積系の領地の形跡は、
北九州、大阪はじめ西日本各地に点在します。
菊のご紋が使われています。
天皇家の東の要です。
物部氏、蘇我氏等が台頭する以前の、天皇家直属の軍であり、
特に、綿積の神を父とする安曇一族率いる海軍は、
天皇家が主に海軍を使っていることからも最強の軍隊。
外にも、安曇野の治水等の功績があります。
出雲系、諏訪一族、上社祭神、建御名方との抗争が有ったのか、
妹は政略結婚により、諏訪大社下社の祭神らしいです。
海に関わること、戦い、外交、貿易、旅行、及び車等に良い。
天皇家の海軍大臣、兼外務大臣なのです。
天皇政権が確定した時点の子孫は、中臣氏(藤原氏)と同じく、安曇連。
「連」とは、神武天皇以前の親族である豪族を指す様です。
又当然のことながら、人々の外に、穂高連峰も、オサメテいます。
ちなみにアズミとは、ワダツミのナマリのようです。
御神体はもちろん頭上、穂高岳。
穂高見命が、この山を好んだ為に付けられたのが穂高の名前の由来か、
槍ふすまの穂の様で、穂高と呼ばれていた山を、
命が好んだので、穂高見命と呼ばれたのか、定かでない。
どちらにしても、数年間、現在の明神付近に、住んでいたようです。
2千年程昔には、おそらく河童橋より下流は、峡谷であったっでしょう。
穂高大明神に由来して、現在は、明神岳と呼ばれています
ウェストンの紹介にも、、
穂高岳の事を、別名、立穂の山、と呼び、南麓を梓川が流れとある。
いわゆる明神岳の事を、指している。大正時代初期になされた山岳名の大変更により、
穂高岳と言われていた山群が、明神岳の山群と、前穂の山群に、
分けて地図表示されることとなったのです。
明神岳は、穂高岳の尊称にして、
穂高連峰の中心の山となります。明神岳の山群全部と前穂にかけてが、
昔の穂高の主体であったのですから、
近年もてはやされている、河童橋からみる穂高連峰は、
明神岳も、前穂も目立たなく、
穂高の奥にあるはずの、奥穂が真っ先に見えます。
実は穂高を側面から見ていることにもなります。
現在でも、明神、又は徳本峠から
穂高連峰の中の、明神、前、奥、西、北の位置を地図上で見れば分かります。ただし、昔の文献には、奥穂のことを、
穂高と区別して保高と呼んでる場合も有ります。
又、穂高の神が祭られている神域である事により、
明神地区は、上高地の中でも、特に神河地(かみこうち)と、
呼ばれていたようです。穂高岳とその奥宮及び霊湖(江戸時代の上高地の絵地図、明神地区が中心となる)
明神の由来と 明神館の歴史
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