明神館の歴史
神河地の中心地!−−徳郷小屋(明神館)

昔の明神館


明神館としての創設は公式には昭和8年です

正式名の穂高岳が、神の山、穂高大明神又は明神岳と名前を変えていくに従い、
お名前を拝借したものと思われます。
明神の館(ヤカタ)と言ったところでしょうか。

それ以前はここに徳郷(とくごう)の小屋が有りました

徳本峠(とくごうとうげ)小屋と混同している文献が
たくさんあります、間違えないでください。

徳本峠という名前が出来たのは、大正初期あたりになります。

その頃は、まだ、徳本峠小屋は、有りませんでした。

昔の文献に出て来る徳郷の小屋が明神館の元の名前となります。


マレー社発行、日本案内記第7版により、
峠からの穂高連峰は、シャモニーのエギュイーユ・デュ・デュラ山の
眺めに似る。
とある。
又、この頃から、小島鳥水等の、紹介により、
上高地温泉付近が,やっと発展し始めます。

様々の理由によって、徳郷小屋の名前を使わなくなったのです。
たまに文献に出てくる当て字としての徳本小屋は、明神館と同一のものです。
ですから明神館の創設時期は、わかりません。

江戸時代元禄に存在が確認されています、しかし、それ以前にも、
無ければならない宿だった明神館=徳郷小屋は起源がわかりません。


明神館の在る現在の地名は、上高地・明神。
明治から昭和初期までは、上高地・徳郷。
古くは神河地(かみこうち)です。


徳本峠の徳本は、当て字であり、徳郷へ至る峠と言う意味で、
大正2年の5万分の1の地図が出来る以前は峠のみで名前は無かった
明神の地名は、後に明神館があった為、名付けられたようです。
現在は、明神池(元々、穂高神社奥宮の御手洗池、宮川の池)が有名になりすぎた為、
明神池の有る所を、明神と、言いはじめてきています。
しかし、これは、間違いであり、明神池の正式な場所の地名は、宮川です。

明神館の場所、明神は、穂高神社奥宮の参道の入口です。

また、ご神体の穂高岳は、明神から拝み、橋を渡り、お宮に進む事となります。



徳郷(とくごう)の小屋とは、江戸時代から大正にかけて存在し
その時代には上高地の中心点として重要な小屋でした。
江戸時代には、松本藩の藩舎を兼ねた木材伐採のための
上高地の中心的な宿でした。
安曇村全体から、峠を越えて木材伐採に入りました。
又−穂高神社奥宮−参拝の為にも必要だったでしょう。

明治時代には、現在の上高地中に作られた、
上高地牧場の中心地であり、宿でした。

馬の蹄鉄も出土しています。

後には日本アルプス紹介の祖、イギリス人、ウエストン卿の
上高地での最初の宿として登場して居ます。

梓川対岸に、徳郷小屋(明神館)(本によっては、間違えて徳本小屋と言っている)
の上高地牧場の配下で、
宮川小屋に居て、木こり生活を引退した猟師、嘉門次翁を訪ねています。


昔は釜トンネルをくぐって来る現在のバス道は有りませんでしたから、
島々から、峠−(後の徳本峠)を越えて、徳郷−(後の明神)に至る
峠道は多くの人々が往来しました。
穂高奥宮参拝に、木々の伐採に、牛馬の飼育に、湯治に、
近年には、登山、ハイキングの為、一般人から著名人まで
通行しています。

昭和25年頃、穂高神社参道標が、
明神館脇に、建立されてます。

上高地の施設の半分以上は、安曇村島々に縁を持ってます。


ごく最近まで、峠道は上高地にとって特に重要な道だったのです。

徳本峠という名前は昔は存在しませんでした。
日本地図の編さんに当たって、徳郷へ出る為の峠ということで、
村民も知らない間に名前が出来ました。
島々の住民にとっては、峠とは、外に無いのです。

このような事から、徳郷の宿は安曇村島々地籍の村民
にとって、生活上、上高地での最重要拠点でした。

為に、上高地を、上河内、上口とも、言われたのは、峠の上の領分
と言う意味があったのかもしれません。
ずっと以前には、島々村民の共有的な小屋だった事でしょう。


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